ここは、日本ウエアラブル技術研究所のホームページです。 人類が機械を着る未来を創っています。
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日本ウエアラブル技術研究所 林 愛一郎
およそ生物は、環境の変化に応じて適応し続ける必要があります。
すなわち、環境が変化する物であれば、
ある生物が進化をやめるとその生物種は滅亡してしまいます。
ある環境で最適な生物はその環境で最適だったのであり、
つまり外部内部の要因により環境が変化していけば、
すなわち最適ではなくなってしまいますし、
恐竜がそうであったように、
ついには適合しなくなってしまいます。
ダーウィンの進化論として知られるように、
生物の進化は淘汰によって行なわれてきました。
人類の場合で言うと、戦争や疫病によって淘汰されてきました。
しかし、我々は戦争や疫病による淘汰に終止符を打ち、
「強い者も弱い者もみんなで仲良く生きていきましょう」と決めたのでした。
(野蛮な後進国はともかく、先進東洋のわれわれ日本人はそのように考え、我が日本国憲法はそのようになっています)
無責任に言うのは簡単ですが、これを決断し実行に移すつもりがあるのであれば、
必然的にこれに伴う義務が発生します。
自分だけがよければよいとはせずに、他人の不幸を嫌う、
戦争に反対するとか弱者差別を良くない物とする立場を保つには、
ただ言うだけでなくて、
それを絵空事でなく実現可能にする必要があり、
そのために行なわなければならない仕事が必然的に付随するのです。
このことについてきちんとした理解と責任ある対応が行なわれてきたかどうかは疑問です。
生物が進化をやめると滅亡してしまうことはわかっているのですが、
人類は遺伝的な選択淘汰をやめると決めたわけですから、
遺伝的な選択淘汰による進化論的な進化は人類には起きなくなってしまいます。
そこで、生物としての内部的な更新が行なわれないので、
外部内部の要因による環境の変化に応じた更新が人類に必要であれば、
外部的な要素による更新が必要だということになります。
すなわち、遺伝によって得られる人体のほかに何らかの機構を装備し、
身体と外部機構とのハイブリッドな生命体として存続することになるわけです。
そんな不自然なことは嫌いだという考えかたは理解できます。
しかし自然とは何であったかを思い出す必要があります。
弱者を駆逐し弱肉強食によって淘汰を引き起こし、
多くの犠牲を払いながら強者として環境に適合して行くことでした。
または弱者として単に滅亡することでした。
この犠牲と滅亡の両方を避け、
しかも、綺麗事を言うだけで何も実際には解決しないというのではなく、
実際に解決策を見出し解決のために行動しようとすれば、
これは自然とは相反する方向性なのですから、
一見不自然な物にならざるを得ません。
構造的に言うとそういうことですが、
たとえば我々は太古の昔より衣服を身に着けており、
皮膚の保護機能や保温機能を衣服で補いながら生存してきたので、
衣服という外部機構がなければ生存できないような環境でも暮らし続けてきたのでした。
衣服を不自然としてこれに反対し排除する、
ナチュリストやヌーディストという方向性のかたがたもいらっしゃいますし、
これを無理解を以って排斥しようとする者では全くありませんが、
人類のほとんどは機能のあるなしによらず何らかの衣服を身に着けているようです。
つまり、構造的には目新しいことではなく、
ただし科学技術の進歩によって実現可能な範囲が広がってきているということです。
日本ウエアラブル技術研究所は、 「『いわゆるウエアラブル機器』の実装技術」について研究する、 ということだけに限定するのではなく、 科学技術のうち、人間の外部機構として身に着け、着ることが出来る物、 という大まかな範囲設定で、 科学技術一般について研究をします。 「いろいろな細分化された技術のうちの『ウエアラブル技術』」という狭い範囲でなく、 およそ人類の科学技術をウエアラブルであるかないかの視点で捉えなおして、 その中でウエアラブルであるほうに分類される物に関する事項全て、 ということです。
特にユビキタスに関して注記しておくと、 ウエアラブルとユビキタスは対立する概念ではなく、 車の両輪として併用されて初めて有効に活用されますから、 併用することが前提であるユビキタス技術についても、 当研究所の広義のウエアラブル技術には含んでしまうこととします。 例えば人工衛星技術と言ったときに衛星単体の技術について論じてもナンセンスで、 打ち上げの技術であるとか打ち上げ前の製造や打ち上げ後の管理の技術、 地上からの制御のためのバックヤードの技術が実際には主体になるのと 似ているかもしれません。
さらには、技能を身に着ける、という言いかたがあるように、 身に着けるとは字面のまま着用するという意味のみならず、 心理的にウエアラブルであれば必ずしも持ち運べる必要も無い、 という広義な範囲設定をしてしまいます。 すなわち、 現状のコンピュータは人間と不可分といえるほどには使いやすくないですから、 これを身に着けた状態と言えるほどに使いやすくするというのも、 広義のウエアラブル研究の一環として必須なのだとして、 ユニバーサルデザインの領域に関しての研究も行なわれる必要があります。 端的に言って文化的な領域ともいえるような部分です。
名前に日本と冠している日本ウエアラブル技術研究所はまた、 日本国の国家規模のウエアラブル技術研究の諸外国に対する橋頭堡、 という矮小な立場ではなく、 人類のウエアラブル技術研究を行なう国家の枠を超えた地球規模の研究所のうち、 単に「日本ブランチ」がとりあえずまず最初に創立された、 という考えかたで居ます。
当初の規模はインスティテュートというよりラボラトリといった趣ですが、 志は遥かに高いわけですし予想される成果についての自負もあるわけですから、 ちっぽけでつまらない物が徐々に発展して大きくなっていく、 という捉えかたではなく、 最初に高邁で立派な物(ヴィジョン)がまずあり、 ただし初めのうちは世間一般や周囲の理解がまだ得られていないために現実世界に実体化していないのみで、 もともと人類のために必要な物として、 未来を含めた永い人類の過去から続く歴史の中で確実にきっちりと確立しているべき物が、 関係者の努力と歴史の必然により徐々に周囲の理解と協力を得て現実世界に普及して行く、 という、 ア・プリオリな思想と信念と情熱をベースとして人類への貢献を目指し行動します。
喩えて言えば、
木を彫っていく試行錯誤のうちに徐々に何らかの像が偶然と形作られていくのではなく、
まずはじめに木の中に観音様を「しか」と見出した仏師が、
「これは何としてもこの有難い観音様を急いで救出しなくてはいけない」
と一心不乱に彫り進んで観音像が生まれる過程と同じです。
あてずっぽうではないのです。
何も理解せず理解しようともせず頑迷に状況を認めず、 よく見ていると主張ししかも本人がそのつもりでも 実際には不勉強で努力が全く足りないために能力が欠如していて ぼんやり見ることだけしかできない人には、 あてずっぽうと先見の明による物の違いが判らず同じような経過にしか見えませんが、 人間の仕事とは何であるか、 人類はいかにしてこれまで進歩してきたかこれから進歩していくのかを理解し、 傍観者としてではなく人類の進化を担い知恵を絞り汗を流して、 人類のお荷物としてではなく、 進歩する人類の一員として応分の負担をし進歩に参加しようとする者には、 この違いが理解できるはずであると信ずるものであります。
理解できないかたが理解できないのは残念ながら致しかたなく、 同情こそすれ何しろ改める能力も無いのですから責めても役に立ちませんし、 周囲に遅れて最後の最後になってやっと気がついてご協力いただけるまで、 後年になって己の恥を晒し自業自得の無用の損害を受けることの無いよう、 理解出来ぬからといって無用な邪魔をされませんよう祈る以外は、 当面は捨て置くしかありませんが、 趣旨をご理解いただけるかたには人類のためですから協力を要請する物であります。 また、当研究所はその使命に関して万全の努力を惜しまない物でありますから、 きちんとご理解いただけた場合には必ずご協力いただける物と信じておりますので、 未来を含む人類の歴史を見据える立場から宜しくお願いいたします。
まず気がついた者・できる者から始めて行きましょう。手遅れにならないうちに。 これは先に気がついた者の責務であろうと考えます。
メールをお待ちしています (といいつつあんまし読めてないかもしれませんすいません)